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ベルギーのホットトピック 7月
...遠くて近い、切っても切れない、
愛と憎しみの長く深い関係 ...

congo

  5月24日、コンゴ民主共和国 政府は駐ベルギー大使を召 還、同時に在アントワープ公 使館を閉鎖すると発表した。 その2日後、今度はベルギー政 府に対し、コンゴ東部と南東 部の2つの公使館を閉鎖するよ うに要請した。
コンゴ政府の姿勢を硬くさ せているのは18日のカーレ ル・デ・グフトベルギー外相 のテレビ発言。「年間2億ユー ロ近くを(コンゴ民主共和国 に)援助しているのだから内 政に関心を寄せる権利がある のは当然だが、(過去の植民 地支配関係から)道徳的義務 感もある」とぶったのだ。

  「我々は独立国である。他国 が我々の内政に関して道徳的 義務感を持つ所以は一切な い!」とキンシャサ政府は大 剣幕。両国の関係にはかつて ない険悪ムードが漂ってい る。
ベルギーとコンゴ。首都キ ンシャサとブリュッセルの距 離は6,171km。旅客機で飛ぶ と9時間半。遠いアフリカ大陸 中央のコンゴとベルギーとの 関係は、それでも切っても切 れない深いものだ。

* * *

  1877年、隣国オランダの植 民地活動に刺激され、アフリ カ進出を夢見ていたベルギー
国王レオポルド2 世 (1835−1909)は、いわゆる “ブラック・アフリカ”地帯 を物色の末、天然資源の豊富 な未開地、コンゴを標的に定 めた。

  国王に派遣された著名な探 険家ヘンリー・スタンレー (1841−1904)は「コンゴ国際 協会」の名の下に、着々と原 住部族を配下に治める。1885 年、西欧諸国からコンゴ統治 を認められたレオポルド2世 は、以後23年間、コンゴを 『私有地』とし、豊かな天然 資源から得られる暴利をむさ ぼった。

  1908年、その暴虐な搾取に 対する西欧諸国の批判がかわ しきれなくなったレオポルド2 世はコンゴの支配権をベル ギー政府に移譲。「ベルギー 領コンゴ」という名の植民地 が誕生する。

  第二次大戦前後から勃興し たアフリカ植民地独立の気運 に乗ってコンゴがベルギーか
ら独立したのはそれから半世 紀余りを経た1960年。10年近 く続いた紆余曲折の混乱と闘
争で、国も人も疲弊し尽くし た末の「独立宣言」だった。

* * *

  2回の世界大戦から経済的打 撃をほとんど受けずに復興し た国ベルギーの陰に、植民地 コンゴがあったのは想像に難 くない。アフリカ大陸でスー ダン、アルジェリアに次ぐ3番
目に広大な国土を持つコンゴ には、ダイヤモンド、銅、亜 鉛などの豊かな鉱物資源と、
肥沃な大地から採れるコー ヒー、砂糖、椰子油、ゴムな どがふんだんにある。安価で
豊富な一次産物と人的労働力 を得た小国ベルギーの今日の 繁栄は、豊かな植民地からの 搾取の賜物だったといっても 過言ではあるまい。

  しかし、植民地時代のコン ゴ統治について、『憎しみ』 だけが歴史に残ったわけでは ない。「ベルギー領コンゴ」 の半世紀の間には、金銭欲だ けではなく、冒険や自由、慈 愛や友好のために遥か南の地 へ移り住んだベルギー人も多 かった。道路や鉄道の建設、 教育や医療制度の整備など、 彼の地の開発のために力を尽 くし、命を捧げた人々がいた のも確かだ。

  部族数250、方言数700以上 を抱えて独立した新生『コン ゴ民主共和国』は1965年、 ジョゼフ・モブツ(1930−97) による軍のクーデターで「ザ イール共和国」という名の独 裁政権時代に入る。以後32年 間私腹を肥やし続けたモブツ 大統領が失脚したのが97年。

  しかし、その後政権についた ロラン・カビラ (1939−2001)は就任から4年後 に反対勢力により暗殺される。 現在の大統領はその長男のジョ ゼフ・カビラ(1967−)。国連 やベルギーを始めとする諸外 国も政情安定化に期待をかけているのだが、誰がまいた種 か、その混乱はまだ簡単に収 束しそうもない。「コンゴ民 主共和国」は現在、世界で最 も貧しい国のひとつに数えら れている…。

コンゴ民主共和国
人口:推計6,260万人(05年)
国土:235万平方km
首都:キンシャサ
探検家スタンレーが1881年に
開いた街で当時の名はレオポ
ルドヴィル。ナイル川に次ぐ
アフリカ第2の大河川、コンゴ
川に沿って広がる。対岸は旧
フランス領のコンゴ共和国首
都ブラザヴィル。